今やるべき「祈り」とは?
祈りとはなんでしょう?
祈るという言葉に縛られると
日本人的には
祈りを「祈願」と捉えすぎてしまい、
●●になりますように。とか
●●ができますように。という状態になる。
それって、
【自分】と【願望】が分離している状態。
神・宇宙・大いなるものと一つになっていない状態。
そんな祈り方では
いつまでたっても
「願いは叶わない」
「願いを追い続けなくちゃいけなくなる」
願望を持てば
期待を持てば
それを追い続けなければならなくなる。
追いかけなくない。
その状態になりたいために
その願望を捨てたいのに…
私は無性に祈りたい時がある。
自分ではどうしようもないような出来事に遭遇した時…
空を仰ぎたくなる。
今回の地震のような大自然の脅威にさらされる時も
私は祈りたくなる。
でもその祈りって
実はさっき書いた「祈願」じゃない。
「地震が来ませんように。」
とか
「地震が来ても大きくなりませんように。」
というものじゃない。
だって、そう祈っている時は
それは「地震が来ると怖い」という波動を出してしまっているから。
怖いという意を乗せて、恐怖を宣言することになる。
祈りとは意宣る(宣るとは宣言するという意味と捉えてもいい。)という意味。
でも、怖いものは怖いし
嫌なものは嫌でしょ?
例えば、
「今月収入が少ないから支払いができそうにない。お願いです。お金をください。」
と祈ったとします。
それは
【お金がない】がないという、恐怖に根源のある意(思い)が宣るものになるんです。
それが果たしてそれを祈りと言えるのかな?
と、私は思う。
では
真の祈りって??どうやったらいいの?
何が祈りなの?
以前私はわからなくなった。
困った時ほど祈りたいのに
祈り方がわからなかった。
じゃ、そんな私が今はどうやって祈っているのか?
極論的な言い方をすると
祈らなくなった
のです。
祈りという概念を捨てたのです。
恐怖を波動にして広げない限りは
どんな祈りでもいいとは思うのですが
あえて祈りというのならば
ただ、心を穏やかにして
神聖な気持ちになるだけ。
例えば。
地震が起きて自分を含めた人間の平穏を祈る時は
私はこうします。
地震が起きないで平穏に暮らしている人々の笑顔や
自分の笑顔をしっかりと思い浮かべます。
そうすると
ファ〜と胸のあたりが広がる何かが湧いてきます。
時には下からファーと上がる感覚になるときもあるし
上から染み込むような何かの感覚になるときもあります。
でも、それは
心地いい感覚なのです。
その感覚をしっかりと浸りながら
ただ、平穏な心で手を合わせるだけ。
そこに
○○になりませんように
とか
○○が起きませんように
という言葉は介在しません。
ただ、降りてくる?湧き上がってくる?広がってくる
その時に起きる感覚に身を任せているだけです。
これが私の祈り方。
そんな私が「祈りの根源」を知った反面、
祈りましょう。
祈ります。
という言葉は
ある意味難しいなと思ってしまうのです。
だって、大半の人は
『地震がこのまま起きずに地球が平和であるように祈りましょう。』
と誰かが呼びかけると
一人一人いろんな「祈り方」をするでしょう。
「世界が平和でありますように。」
「戦争が起きませんように」
「差別がない世界になるように。」
「今の平和が続きますように。
いろんな意を宣せて…
でも、もし今回の地震のようなタイミングに祈るのならば
みんなが日々平和に暮らしている今をしっかりと味わい
その時に湧いてくるエネルギーをただ受け取り
そのエネルギーに浸って
体を任せていると
なぜか自然に手が合わさり
生きていること自体が
なぜか「すごい感じ」になる
この感覚の波動を広げる。
こんな祈りをしていきたいものです。
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